木曜日, 2月 19, 2009

冷たい雨にうたれて--


1ヶ月程前の1月中旬。朝から冷たい雨が降っている。JR/渋谷駅南口。一日が終わろうとしている午後10時だ。

改札口を出た人々が、お互いの体が触れないように肩先の角度を変えながら早足にすれ違って行く。

駅の開口部分にある花屋は、店じまいの時間なのだろう。白いつなぎを着た小柄な若い女性が、売れ残りのガーベラやフリージア、バラなどを新聞紙で大きく束ね、両手で抱えて店のかたわらに止めた車に運んでいる。濡れた手が赤くなっている。煌々とつけられた店の灯りが髪を後ろに束ねた彼女の丸い顔をクッキリと照らして、何かの舞台の一場面を見ているようだ。バケツに入ったままの百合の強い匂いと、ホコリまじりの雨の匂い、一日を外で過ごした人たちのまだ沈み切らない高揚したままの気分が混じり合って、花屋の一角は暖かく生き生きしたものがあふれていた。

今夜は一段と寒い。
わたしは傘を傾けて風と冷たい雨を避ける。

雨水で覆われたアスファルトは、ビルの壁面に取り付けられた広告のライトを浴びて、ニスでも流したように光っている。靴先をつけるたびに、水に映された光の輪郭はたちまちに砕かれ、小さなかけらになってワラワラと散って行く。そしてすぐに新しい形が作られる。--- また崩れ---また新しい形になり---と限がなく繰り返している。
みんな急ぎ足で歩いている。わたしもバスを逃すまいと、早足になる。
駅前の信号が赤になる前に渡ってしまおうと思った。

それがいけなかった。
突然、雨の夜空にピンクの傘がフワリ、と浮かんだ。

メリーポピンズが空からやって来たのではなく、
わたしが足を滑らして転び、傘が手を離れたからであります。

一瞬後には、鼻の10cm先にアスファルトの地面があった。
目の前には見たい訳ではないのに真っ暗な夜空がいっぱいに広がっている。冷たい雨が、情けも配慮もことわりもなく真上から顔を打ってくる。この角度で見る雨の夜空にも、顔に当たる強い雨脚にも記憶があるのが何とも無念だ。

私は、心の中で言う。
嗚呼、また、やってしまった。

実は先月も全く同じ条件、つまり雨の夜、30cmと違わない場所で滑って転んだのだ。
二回も同じところでこけた原因は、もちろんこのシーズンに買ったブーツにあるのであって、もしかしたらわたしが老化したため鈍くなっているのではないか? などとは夢にも考えたこともない。だけど、一ヶ月もたたない内に同じ事をしてしまった面目なさがわたしを打ちのめした。高麗人参エキスを倍量呑んでもさっぱり元気が出ない。夏目漱石が心の葛藤を持て余したあげく松山に移り住んだように、わたしもどこかに隠れたい気持ちになった。
わたしの人生って「自己を高めるには---」なんて課題は「おとといおいで」といわれるほどに問題外で、いつもこんな風に自分が招いたハプニングのあと始末に追われているんだ---と、情けないったらありゃあしない。
夏目漱石著「門」の宗助とお米さんのように、世間や雑事からなるたけ離れて、非日常的に日常生活を送り(ただ、掃除等はあまりしないっていう意味ね--)、七輪にかけた白菜鍋でもつついて暮らしたい、っていうのに。いつの事やら---。「矢切の渡し」や「枯れすすき」tasteでも良いけど---。(何も逃げる必要はないのだが---)
ねん挫した足首が腫れて痛いのので、いつも行っている整形外科に行った。
私があんまり頻繁に行くものだから、医師は「今度は、何したの?」と笑いを噛み殺して、私に聞く。
まあ、とりあえず、靴の修理店にもって行ってブーツの底に決して滑らない何かを張ってもらおう。

誰かの本に、
we are such stuff as dream are made of; and our little life is rounded by a sleep----とあったけど、
わたしのはずいぶん痛い夢だ。
これから先、冷たい雨が降るたび、
わたしは何回もこの事を思いだすでしょう。
そして、わたしの人生って、自分がしたことのあと始末の連続なんだ、この事実を受け入れよう、って再確認することにする。
picture from " The Book of Bunny Suicides" by Andy Riley."Madeline" by Ludwig Bemelmans. Mayumi painted.