火曜日, 4月 28, 2009

pre-認知症

Blue Parrotスタッフのマリアナ は現在日本語の勉強途中ですが、すでになかなかじょうずです。

一昨日、お店に電話があってマリアナが出た。彼女が日本語で話しているので、わたしは「フムフム、電話のあいては日本人ね--」と思っていた。そのあとマリアナが「今の電話の人、日本人なんですけど、名前はガイジンなんです」--と不思議なことを言う。
聞けば、日本語じょうずの Mr.G から買い取りの件の電話だったが、お互いの日本語があまりにじょうずなので、マリアナは彼を日本人だと思い込み、Mr.G もマリアナを日本人だと思ったようだ。
わたしはふたりの日本語じょうずぶりを知っているのでおかしくて、「まあ、最後までふたり共、日本語でしゃべったの? 彼もあなたもガイジンなのにね---」と答えたけど、言ってる先からなんだか頭の中がごちゃごちゃしてきて、「あなただれ?」「わたしだれ?」「ここはどこ?」と、ひとりで認知症の問答をしているような気持ちになった。

お客さんがお店の狭い通路を歩く時、こんでいると通れないので、『あっ、どうも--」とか声を掛けて通路を譲り合っていますが、これが日本人ではなくガイジン同士なのです。「どうも、すいません--」とかね--。

こんな時、わたしは心の中で、思わずつぶやいてしまいます。「ここはどこ?」「わたしはだれ?」「あなた、だれ?」---と。
さもないと、足場ががたがたと崩れていくような気がするのですもの。

木曜日, 4月 23, 2009

花嫁修業をしました in Hiroshima



Blue Parrot に週に二回程入ってくれるスタッフの Mariana が、
桜が満開の4月始め、婚約者の故郷/広島のご両親の家で10日間程、花嫁修業をしてきた。
「去年、はじめて訪ねた時は緊張でした」と言っていたが、今回はリラックスできたらしい。
何を料理したの?と聞いたら、パスタとかピザ、きんぴらを作って、ご両親に喜ばれたそうだ。
これは Mariana が撮影した彼の実家の近くの景色と咲いていた桜の写真。
静かで落ち着いていて、のどかな良い所なんだなあ、としみじみ思える写真です。

上の写真をごらんくださいな。どんな風にして撮ったのだろう、と不思議ですが、この写真に写っている川面を見ると「地球は丸い」ってことがよーくわかるわね。桜の花も大きくて柔らかそう。

   Yuuki kun & Mariana
   おめでとう:)





Picture by Mariana & Mayumi & Blue Parrot Library

火曜日, 4月 21, 2009

悪いけど、ちょっとこすらせて--。

<タケノコの茹で方>
*皮ごと茹でると、皮に含まれている成分が身を柔らかくするので、皮ごと茹でます。
*タワシでこすって皮にはえている茶色の短い毛をおとす。
*先端を少し切り落とし、皮をつけたまま大きく隠し包丁を入れ、赤唐辛子、ぬかと一緒に大鍋に放り込んでで50分茹でる。
*竹串がスーッと通れば火を止めてそのまま冷ます。

<レシピ>
*クリーム色の柔らかい皮と穂先は、短冊に切って人参、油揚げとタケノコ御飯に。
*本体の半分は8ミリ厚の大きい半月に切ってわかめと一緒にサッと煮る。盛りつけ後に鰹節をかける。
*残りの半分は明日、酢豚の材料にしましょう。

うん、八方、大満足。

月曜日, 4月 13, 2009

それから/And Then--


深い藍色の空の中程に、卵色の巨大な月がかけられた。
中途半端な湿気と温度が肌に心地よい。
桜の花はめでたく満開だ。
そよ、と風が吹けば、ピンク色した柔らかい花びらは素直にほぐれ、クルクル回転しながら頬に戯れかけてくる。

全ての音が地面に吸い込まれ、静まり返った深夜の住宅街。庭にこんもりと植えられている樹木の葉があるかないかの風にこすれ合わされ、夢の中で聞く足音のように、カサコソと乾いた音で耳に入ってくる。
道路の片側には腰の高さ程まで石が積まれて垣となり、そこに良く伸びた櫟井/いちいが隙間なく植えられて、50メートル程も緩やかなカーブで続いている。小振りで深い緑色の葉をみっちりつけた茂みのすきまから、庭の奥まったところに建てられた家の灯りが小さい宝石のように鋭く輝いて見え隠れしている。
湿気で輪郭がにじんでいる大きな月の柔らかな光が、目に入るもの全てを、道路の端にあるちっぽけな小石まで瑞々しく洗いあげ、黄金の光でコーティングしている。八方何もかもが実に平和で美しい。
今は夜の11時。一日の仕事を終えた人々がそれぞれの家で笑いや喜び、小さな怒り悲しみを友好的に分ち合っている頃だ。これらはみんな満足のいく素材と味付けで、しかもほどほどの量と納得の価格。それらを盛り合わせた今宵のひとときは、さしずめ腕の良いファミリーレストランのコックが料理した完璧なコースのようだ。
月の中ではウサギが遊んでいるし、海の中では竜宮城が門を大きく開き、イカとタコがあなたの来るのを待っている。携帯電話機種変更は0円で、コンビニは24時間営業だ。救急車のサイレンが狂ったように叫んで夜空を切り裂こうとも、それは他人事。そして他人に起こった出来事の感想を誰かに聞かれればこう答えるでしょう。「思ってもみませんでした」「まさか、あの人が--」「とても信じられない」etc. etc.

わたしたちは知ろうともしないし想像すらしない。この「夜」と言う名前の、人あたりの良い漆黒の塊が、この世に生きる人間の日ごとに増える欲望の重さを借りて、宇宙始まって以来の全てを呑み込んだ大地を、破けないように、吹き上がってこないように、満身の力を込めて押さえ込んでいることを。そして、何も叫ばせまいと口をふさいでいることを。
闇の中から足音も立てずにやって来た、身ぎれいで愛想の良い彼は、唇の端に薄い笑みを浮かべてわたしたちの耳に小さく囁く。
「よくみてごらん。生きることに何も問題はないだろう?。仲の良い家族があり、友達がいる。家も職もあるし、からだは丈夫だ。必要なものはみんな持っている。何も考えなくっていいんだよ。ね?見えないことは”存在しないこと”と同じなんだ。知らなくったっていいんだよ。死んだならそれっきりなんだから。分かっているだろう? 死ぬまで何事も無く生きていけばいいのさ。他人からは”いい人”といわれ、常識と法律さえ守っていれば上等さ」
彼は何度も何度も囁く。私たちは彼の口から出る一つ一つの言葉で頭の中が一杯になり、目を宙に泳がせ、幼いこどものようにコックンと頷く。彼の言うことに何の疑問を持たず、まして反対はしない。なぜならば、産まれてから今まで、同じことをくりかえしくりかえし聞かされているので、思考と感情の回路が硬直しているのだ。それ以外のことは想像もできやしない。

また、誰かが来て耳元でしゃべる。
「耳が二つあるのなら、もう一方の耳でよくお聞きなさい。
長い刀を持って、この巨大な闇と地の塊を右上から左下に向けて、バッサリと切ってごらん」続けて言う。
「暗黒の固まりに含まれている腐った臭い血が、その切り口から吹き出てくるのが見えるはずだ。産まれなかった赤ん坊が。つぶされた叫びが。消えた夢が。流されなかった涙の袋、失意、失望の抜け殻が。無知や狂気、暗愚や無分別、嫉妬や憎しみ。水をかけられた情熱や欲望、自尊心。乾涸びてしまったイマジネーション。岩場の腐った海水を探し求めて歩くフナムシのように、ぞろぞろぞろぞろでてくるのが見える筈。
そして、それぞれ固有の哀しみを持った化け物は口々に言う。
「なぜ我々をつぶしたのだ」
そうしたら、あなたたちは言わざるを得ないでしょう。
「お前たちを認めたら、私は生きていけないのよ」 」

驚いたことに、どちらの言葉も私たちの口から出て来るではないですか。

そう気づいた瞬間、体中の神経に電気が流れ、わたしたちの頭髪は逆立つ。
そして顔は死んだカエルのように白くなり、反吐が出ないように、自分の口を両手できつく押さえるのだ。

どのくらいの時間がすぎたのかわからない。そっと目を開けると、見たこともないところに立っていることに気がつく。
自分の意志ではないが、何かに背中を押されてここにたどり着いたようだ。
そして、思いもよらないことだが、来る途中で自分の物だ思っていた肉体は、コートを脱ぐように、ことわりもなく誰かに取り去られてしまったようだ。
そればかりでなく、頭に入っている筈の知識や経験、言語や思考がひとつも残っていないのだ。おまけに、何故か分からないが「今」というベルトから「永遠」というベルトに移されてしまい、今では光だと思っていたものは闇であり、闇だと思っていたものが光だとわかった。物差しの目盛りはアメーバのように絶えず動いて用をなさない。感じたことや思ったことは指のあいだからするすると抜けていくし、物事は逆さまに見える。いったいどうしたのだ。

何も判断できないので、次第に無気力になり、じーっと動かないでいる。ぼんやりした目を遠くに遣ると、白い霧がたちこめているところが見える。そこでは、目のない痩せたキリギリスたちが、破れた羽を引きずって、同じところを何度も何度もめぐり歩いているのだ。
その時わたしたちは、長いこと無視してきた、「あのこと」や「このこと」は言い訳ができないばかりか、この後、焼けるほど恥じ入りながらそれと向き合うことになる、と知らされる。

そして、最後にやっと「空」ということばが「地面に落とされた天使」の名前と同じだということに気がつくのだ。

やっと。

そう、やっと。

「でも、もう、遅い」と頭のどこかで知っている。
流す後悔の涙は酸なので、目はたちまち腐る。




pictures from the Blue Parrot library.

日曜日, 4月 12, 2009

Sun.April 19 : Black Gospel Consert


Tokyo Baptist Church

Featuring Alex Easley
Ronnie Ruker & Chofu Mass Choir
Gilbert Espineli & New Commitment Family
Sister Reid & Sound of Joy

Sunday,April 19,2009 6:30pm
9-2 Hachiyama-cho Shibuya-ku Toky
tel/03-3461-8425

(take the Tokyu trans bus from JR/Shibuya-Station South Exit to 「DAIICHI SHOUGYOU KOUKOU MAE」stop)

於:東京バプチスト教会:東横線、代官山駅下車徒歩10分
or 渋谷駅南口から東急トランセバスで「第一商業高校前」下車。
入場無料
www.tokyobaptist.org
email: info@tokyobaptist.org

ポスターのALEX はクリスチャンでありゴスペルシンガーであり、格闘技の司会もしている。そして一ヶ月に2〜3回はBlue Parrotと拘置所に行く。拘置所へは、そこで足止めを食っている外国人が日本語を学ぶ為の本/"Japanese for Biginner"とかキリスト教の伝道になるようなもの持って慰問にいくのだ。
"Japanese for Biginner"の類いの本を置いて来ると、彼らは時間があるものだから、わずか3ヶ月くらいで日本語をマスターしてしまうという。すごいなあ。誠実な ALEX の訪問がきっと彼らの励みになっているのでしょう。このポスターを持って来た日「拘置所の一人が先週、バプテスマを受けました」とニコニコ顔で言っていた。ハレルヤ!!

土曜日, 4月 11, 2009

あれば良いってものでもないです。

前回、三輪車で駒沢公園を一週した男の子は泣くことを「潔し」としなかったにもかかわらず、ついに”ママ、抱っこ”と叫んで、かっこいいだけでなく、cuteでもあった、と書いたが、ついでに彼のパパの事を思い出したので書くことにした。

当時彼の若いパパは、中東のバレーーンに単身赴任していた。
年に数回日本に戻って来るが、成田から決して真っすぐに家には帰ってこない。
どこに行くのかというと、都立大学の駅前にあるパチンコ屋だ。
赴任先で買った子供たちへのお土産が入っている大きな荷物をワキに置き、脇目も振らずパチンコ台をにらみながら指の運動をする。5〜6時間堪能して、やっと家を思い出してタクシーに乗る、というわけだ。
死ぬ程パチンコが好きなので、バレーーンでパチンコができないことがつらくてつらくて仕方がなかったようだ。
そこで彼は考えたのでしょう。パチンコ台をどこかで手に入れて、バレーーンに持って行ったのだ。もちろんパチンコ玉もね。
これを聞いた時、わたしは心底たまげた。「パチンコ台下さい」「はい、まいど。何台ですか?」「一台で良いです」---こんな風なやり取りをしたのだろうか?どうやって手に入れたのか、今もって不明だが、そのいても立ってもいられないストレートな気持ちは虚飾が無くていいね。本人は大真面目だもの。
ヨーシャ、これからは思う存分やってやるぞーっ!!(これ、彼の気持ち)
毎日が炎天の彼の地で/あたり一面砂漠なんでしょう、あそこって?)パチンコ台と二人っきりで差し向かい、バラ色の蜜甘日々を送るはずだったが、残念なことにそうはいかなかった。
なんだかつまらないのだそうだ。数回やって後は押し入れは無いから倉庫に押し込んだという。
チョコレートとかガムとかタバコの景品が無いし、軍艦マーチのようなそそったり煽ったりするBGMもない。玉が出て来る時のジャラジャラジャラ--という音も自分一人分では景気が悪い---では、張り合いがないものね。
そして相変わらず都立大学駅前のパチンコ屋に入り浸っている、と--。
彼の妻は言っていました。おわり。

月曜日, 4月 06, 2009

男のプライド



以前このブログで、飼い主の伴走がないにも関わらず、決められた通り真面目に駒沢公園をダッシュで三周も走ったり、雨の日の散歩の時、ゴミ用の黒いビニールの袋を着せられて嬉しそうに歩いている可愛いオス犬たちの事を書いた事がある(”オス犬のプライド”)。
あっぱれだ---、 けなげだ---、心意気がかっこいいじゃない!--、とわたしの心にきっちり刻まれたので彼らの姿は死ぬまで忘れないと思いますが、同じく誇り高き振る舞いを駒沢公園で見た事がある。

もう四半世紀も前、北風がヒュウーヒュウーと音をたてて吹きまくり、クロワッサンのかけらのような枯れた木の葉が空中高くまで舞い上げられていた冬の駒沢公園でのこと。娘の遊び仲間の一人でなまえは忘れてしまったが3-4歳の男の子があの寒さの中、自分の小さい三輪車で丘あり谷ありの駒沢公園サイクリングコース(2.2KM)を一人で走って無事に帰って来た。
待っていたママさんはもちろん、私たちも「すごいねー」「よくやったねー」「えらいねー」とほめた。
頬を赤くして興奮した面持ちの坊やは三輪車に乗ったまま私たちの賞賛を受けていたが(男の子って一般的に口が遅いから、まとまった事は何も言わないのね-)やおら投げ捨てるように三輪車を降り、地面にすっくと仁王立ちになったかと思うと彼の両の目からみるみる涙があふれてきた。口はミミズ文字の「への字」にゆがんで両手はしっかとこぶしをにぎり、鼻水と涙とホコリでくしゃくしゃになった顔でママを睨みつけている。周りを囲んでいた私たちが ”いったいどうしたの?”とびっくりする間もなくその子は泣きじゃくってママに駆け寄り、しがみつくと同時に言った。
”ママ、抱っこ!!!”その子の涙と鼻水が私たちに降り掛ったものだわ。

大仕事をした後だから、本当はママに甘えん坊な心をぶつけたいけど彼はそれを「潔し--」としなかったのね。でも抵抗しきれなかった。そして「無念」のくやし涙 --- ”そうか、そうか、君、よくがんばった!!”

仲間で真紀チャンと言う女の子がいた。少し年上で4歳か5歳。彼女も駒沢公園を三輪車で走った。
”お帰り-”と声をかけてふと足もとを見ると、履いていたサンダルが足の甲にあたって摺れて皮が剥け、血が出ていた。小さい足は薄赤い血で濡れてていた。ハンカチで拭いて上げたら「ありがとう」と言っていた。
枯れ葉とホコリをお供に引き連れ、めちゃくちゃに吹きまくっている北風の中、わたしは決して泣かなかった幼い頃のわたしと真紀ちゃんをそっと抱っこしてあげた。
Picture from Blue Parrot Librqry