
高田馬場は、私のように東京都南部で、小松菜畑の向かいに住んでいるような者から見ると、比べ物にならないほど刺激的な出来ごとでいっぱいだ。
駅前は、「ここはどこじゃあ!」と思う程、あらゆる国の外国人が歩いているし、レストランやマッサージ店の数は普通ではない。
夜になれば、出口付近でイケメンの三味線弾きが、きめの細かな青白い片頬を月明かりに浮き上がらせながら、三味線と一緒に体を揺らして熱くなっている。着流しで、刀でも振り上げたら似合うだろうなあ----と、つい足を止めて、ほれぼれと見とれてしまう。
こんな風景は、我が家の近くでは決して見ることはできない。
今朝、高田馬場で山手線を降り、改札をでたところで、突然男の大きな怒鳴り声。続いてグシャと何かがつぶれるような水っぽい音が聞こえた。
What's happened!!!
こうなったら、誰が黙って通り過ぎられようか?時計をみると、2-3分は使えそうだ。
そう思ったのは私だけではなかったらしく、不穏な空気の立ちこめる一角に、構内のあちこちから人が集まってきた。一歩遅れて人ごみの隙間からのぞいてみると、40歳前後の浅黒い肌をした筋肉質の男が、皮膚から怒りのオーラをビンビン発射して、何か叫んでいる。
---が、次の瞬間には2~3人の男に手足を取られて倒され、私が瞬きする間もなく、顔を地べたに押さえつけられてしまった。
馬場には強者がいるのね。
押さえられている方が叫んでいるのだろう、「やめろ!!やめろ!!」という声が聞こる。
少し離れたところには、鼻から白いワイシャツまで真っ赤な血を垂れ流したまま、血の気の失せた顔をした男が、壁にもたれ、泣いているのか微笑しているのかわからない表情で、目をウルウルさせている。
怒りを発光していたあの男は、いったい何に怒っていたのだろう。
そういえば、フロベール著「ボヴァリ–夫人」では、主人公のエマが浪費と不倫を重ねて最後に毒をあおり、破滅してしまったが、町の外科医であった夫のシャルル(でしたっけ?)は決してその理由を悟らないだろう、という伏線が張られてあった。
血を見た10秒後、構内の片隅でバックパックを枕にしてまだ夢の中の宿無しおじさんを横目に、私は信号が赤になる前に渡ろうと足を早めながら、「ボヴァリ–夫人」のそんなことを思い出していた。
あの発光男も言うだろうか?
「ボヴァリ–夫人は私だ」と。
言わないだろうな。