木曜日, 10月 23, 2008

I'm helpless against it.

「ジンジャー」または「ジンジャーリリー」という名前の花がある。
これです。

花びらが薄くそれぞれが勝手にあっち向きこっち向きしている花だ。

造形的に言えば、花に飛び乗ろうとする寸前の蝶のように、不安定でかなりバランスの悪い形をしている。

初めて見たのはいつだったのか、どこだったのか、覚えていないのだが、季節は晩夏で時間は夜だったような気がする。たった一目見ただけなのにその不安定な形と、強い香りがつくる何か不思議な世界に心を奪われて、欲しくて欲しくてしかたなく、折りあるごとに花屋を覗いたけど、どこの花屋でも売っていなかった。

そんなことをしていたある日のこと、茨城県か福島県のあたりに用事で行った時、田んぼの中に作られた肥料入れの横に白い花をポツポツとつけて群れ生えているのを見つけた。おや? あれはあんな風に自然に生える野の草だったの? --- 。

ああいうところに無造作に植えられているくらいだから、多分商品価値は低くて誰もお店に出して売ろう、などと思わないのでしょう。どうりでどこにも売っていないわけだ。

でもね、田舎の肥だめの防人として植えられていようが、花屋のショーケースに大切に飾られていようが、
わたしにとってはどちらでも同じこと。いつもNO-1だ。
何がすてきって-
まずその香りがそこいらの花とは全然違っているのです。
とても言い尽くせるものではありませんが、
いうならば---
大きな滝のそばで味わうオゾンのむせ返るような豊かさの中に鉱物的な酸味を含む甘さがあるのが特徴で、そこに南の国のおいしい果物と満開の花を山盛りにしてギューと搾り出したエキスを加えて作ったのでは--と,想像できるようなくっきりと鋭い香りなのです。おまけにシャネルNO-5のように晴れ晴れしたゴージャスな派手さもある。

夏の夜、一輪開いているだけで、凝縮された光と水分がみっちり入った香りのエッセンスが深い夜空にキラキラと舞い上って行くさまが、わたしには見えるような気がする。

このように長い間わたしにとって「幻の花」だったのですが、数年前、偶然通りかかった家の近くの空地/と言っても所有者がありますが/で、それが咲いているのを見つけたのです。

その時は歩いていた足が文字通り「はた!」と止まり、心臓がバックンバックンと鳴り始めました。
「ちょっと待って。こういうドキドキは恋愛している時に感じるもので、好きな花に出会ったからといってこんなに上ずっている私って、変!!!」と思いながらも、理性は完敗でした。
どうやら脳内の司令官が私の心情を「恋愛」と判断して「Go !!」のスイッチを入れてしまったみたい。
「ちがうってば!!」と司令官に「カツ」を入れたかったのですが、誰に迷惑をかけるわけでもないのでドーパミン流出量に比例して、意味なくドキドキしながら傍に行ってじっくり見ました。

こんな風にわたしを無意味に動かしてしまうなんて、わたしの脳内司令官はあきれたものです。でもこの出来事のおかげで、私の/私だけではない、と思いますがー)脳内の司令官の判断は非常に大雑把であてにならない、と知ったわけです。その人の持った「感情」が司令官を動かす、とは聞いていたけど、彼はこんな勘違いもするので、人は自分の意志がそうでなくても体が反応して動いてしまうこともあるのね。
それはそれとして ---
その時かの花はほんの二つか三つの花をつけ、草や樹木が無造作に生い茂っている200坪ほどの土地の道路際にさりげなく植えられていたのです。蒸し暑い夜気の中、その白く薄い花びらは、かすかな風の中、土地をぐるりとかこっている金網と擦れ合いながら、なんだか居心地悪そうにユラユラと---
その様子は”羞じらっている風情”の代表格である”はじかみ”もゴリラに見える程のたたずまいでした。
当然ながら、詳しい場所は秘密です。

--- という訳でここ数年間、花が咲いている夏の間は、ひとつ前のバス停で降りて回り道をして、ひとりホクホクと眺めているのです。

小さな侘び家にきれいな愛人を置いて秘密に通っている男って、こんな気持ちなのかな、などと考えながらね。どのDNA がそうさせるのかわからないが、なぜかいわれのない後ろめたさを感じるので、ついこそこそしてしまうんだわ。

そして夏の終わり近くになると、「もう来年まで見ることはできないんだ」と名残惜しくてしかたなく、ある日いよいよはさみをバッグにしのばせて家を出ます。夜ふけの仕事帰りに、バスを降りて脇目もふらず現場に行く。あたりを見回し人がいないのを確認して、はさみをバッグから取り出す、そして、一輪だけ”チョッキン”と切る。はっきり言って、わたし「泥棒」ね。

だけど---

これほど心を注ぎ、社会的に干されるかもしれない危険を冒してまで手に入れても、
肝心の輩は、家に帰って水を入れたコップにさすまでの5分も待てずに、みるみるうちにわたしの手の中でしなびていく。

どういう性質なのかは知らないが、生まれ育った株からはなれると、
「生きよう」という気持ちが薄れ、香りを出す気力もなくなるみたい。

犬と違うから、なだめたり、言って聞かせてわかるものでもないし。

既に薄茶色にしなびて指にからみついている花びらを引きはがし、水を入れたコップにさして、
わたしは蛇口をひねり、黙って手を洗う。

ローマ時代の総督ピラトは「イエスを十字架刑に!」と叫ぶ民衆にイエスを丸投げした後、水をもってこさせ、”私には責任がない”と言って手を洗った、といわれているが、わたしの手洗いは「丸投げ」や「あきらめ」の意味はない。
ただ、少し泣きたくなった気持を沈めなくてはならなくなっただけ---。

こんな風になるのがわかっていても、わたしは性懲りなく毎年同じことしている。
不毛とわかっていても、I will.


picture from IN

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