月曜日, 4月 13, 2009

それから/And Then--


深い藍色の空の中程に、卵色の巨大な月がかけられた。
中途半端な湿気と温度が肌に心地よい。
桜の花はめでたく満開だ。
そよ、と風が吹けば、ピンク色した柔らかい花びらは素直にほぐれ、クルクル回転しながら頬に戯れかけてくる。

全ての音が地面に吸い込まれ、静まり返った深夜の住宅街。庭にこんもりと植えられている樹木の葉があるかないかの風にこすれ合わされ、夢の中で聞く足音のように、カサコソと乾いた音で耳に入ってくる。
道路の片側には腰の高さ程まで石が積まれて垣となり、そこに良く伸びた櫟井/いちいが隙間なく植えられて、50メートル程も緩やかなカーブで続いている。小振りで深い緑色の葉をみっちりつけた茂みのすきまから、庭の奥まったところに建てられた家の灯りが小さい宝石のように鋭く輝いて見え隠れしている。
湿気で輪郭がにじんでいる大きな月の柔らかな光が、目に入るもの全てを、道路の端にあるちっぽけな小石まで瑞々しく洗いあげ、黄金の光でコーティングしている。八方何もかもが実に平和で美しい。
今は夜の11時。一日の仕事を終えた人々がそれぞれの家で笑いや喜び、小さな怒り悲しみを友好的に分ち合っている頃だ。これらはみんな満足のいく素材と味付けで、しかもほどほどの量と納得の価格。それらを盛り合わせた今宵のひとときは、さしずめ腕の良いファミリーレストランのコックが料理した完璧なコースのようだ。
月の中ではウサギが遊んでいるし、海の中では竜宮城が門を大きく開き、イカとタコがあなたの来るのを待っている。携帯電話機種変更は0円で、コンビニは24時間営業だ。救急車のサイレンが狂ったように叫んで夜空を切り裂こうとも、それは他人事。そして他人に起こった出来事の感想を誰かに聞かれればこう答えるでしょう。「思ってもみませんでした」「まさか、あの人が--」「とても信じられない」etc. etc.

わたしたちは知ろうともしないし想像すらしない。この「夜」と言う名前の、人あたりの良い漆黒の塊が、この世に生きる人間の日ごとに増える欲望の重さを借りて、宇宙始まって以来の全てを呑み込んだ大地を、破けないように、吹き上がってこないように、満身の力を込めて押さえ込んでいることを。そして、何も叫ばせまいと口をふさいでいることを。
闇の中から足音も立てずにやって来た、身ぎれいで愛想の良い彼は、唇の端に薄い笑みを浮かべてわたしたちの耳に小さく囁く。
「よくみてごらん。生きることに何も問題はないだろう?。仲の良い家族があり、友達がいる。家も職もあるし、からだは丈夫だ。必要なものはみんな持っている。何も考えなくっていいんだよ。ね?見えないことは”存在しないこと”と同じなんだ。知らなくったっていいんだよ。死んだならそれっきりなんだから。分かっているだろう? 死ぬまで何事も無く生きていけばいいのさ。他人からは”いい人”といわれ、常識と法律さえ守っていれば上等さ」
彼は何度も何度も囁く。私たちは彼の口から出る一つ一つの言葉で頭の中が一杯になり、目を宙に泳がせ、幼いこどものようにコックンと頷く。彼の言うことに何の疑問を持たず、まして反対はしない。なぜならば、産まれてから今まで、同じことをくりかえしくりかえし聞かされているので、思考と感情の回路が硬直しているのだ。それ以外のことは想像もできやしない。

また、誰かが来て耳元でしゃべる。
「耳が二つあるのなら、もう一方の耳でよくお聞きなさい。
長い刀を持って、この巨大な闇と地の塊を右上から左下に向けて、バッサリと切ってごらん」続けて言う。
「暗黒の固まりに含まれている腐った臭い血が、その切り口から吹き出てくるのが見えるはずだ。産まれなかった赤ん坊が。つぶされた叫びが。消えた夢が。流されなかった涙の袋、失意、失望の抜け殻が。無知や狂気、暗愚や無分別、嫉妬や憎しみ。水をかけられた情熱や欲望、自尊心。乾涸びてしまったイマジネーション。岩場の腐った海水を探し求めて歩くフナムシのように、ぞろぞろぞろぞろでてくるのが見える筈。
そして、それぞれ固有の哀しみを持った化け物は口々に言う。
「なぜ我々をつぶしたのだ」
そうしたら、あなたたちは言わざるを得ないでしょう。
「お前たちを認めたら、私は生きていけないのよ」 」

驚いたことに、どちらの言葉も私たちの口から出て来るではないですか。

そう気づいた瞬間、体中の神経に電気が流れ、わたしたちの頭髪は逆立つ。
そして顔は死んだカエルのように白くなり、反吐が出ないように、自分の口を両手できつく押さえるのだ。

どのくらいの時間がすぎたのかわからない。そっと目を開けると、見たこともないところに立っていることに気がつく。
自分の意志ではないが、何かに背中を押されてここにたどり着いたようだ。
そして、思いもよらないことだが、来る途中で自分の物だ思っていた肉体は、コートを脱ぐように、ことわりもなく誰かに取り去られてしまったようだ。
そればかりでなく、頭に入っている筈の知識や経験、言語や思考がひとつも残っていないのだ。おまけに、何故か分からないが「今」というベルトから「永遠」というベルトに移されてしまい、今では光だと思っていたものは闇であり、闇だと思っていたものが光だとわかった。物差しの目盛りはアメーバのように絶えず動いて用をなさない。感じたことや思ったことは指のあいだからするすると抜けていくし、物事は逆さまに見える。いったいどうしたのだ。

何も判断できないので、次第に無気力になり、じーっと動かないでいる。ぼんやりした目を遠くに遣ると、白い霧がたちこめているところが見える。そこでは、目のない痩せたキリギリスたちが、破れた羽を引きずって、同じところを何度も何度もめぐり歩いているのだ。
その時わたしたちは、長いこと無視してきた、「あのこと」や「このこと」は言い訳ができないばかりか、この後、焼けるほど恥じ入りながらそれと向き合うことになる、と知らされる。

そして、最後にやっと「空」ということばが「地面に落とされた天使」の名前と同じだということに気がつくのだ。

やっと。

そう、やっと。

「でも、もう、遅い」と頭のどこかで知っている。
流す後悔の涙は酸なので、目はたちまち腐る。




pictures from the Blue Parrot library.

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